アスリートのセカンドキャリアと昨今の日本社会/日本経済

心のスイッチを切って、スポーツを考えるシリーズ。徐々に読者が増えています。今回はアスリートのセカンドキャリアと、昨今の日本社会・日本経済の比較である。

アスリートのセカンドキャリア

アスリートは、仮にスポーツ選手として活躍しなければ、これといって特徴がない高校を卒業し、町の工場の作業員をやっていたと思われる人もいるだろう。要は地元から出なかった、「ローカル人材」である。メディアなどとも基本は縁がないだろう。

一方、特殊なスポーツというエリアで一度高いレベルで戦い、全国や世界に出ている場合、場合によっては外国語でインタビューを受けたりもする一度は「グローバル人材」を体験した状況である。待遇も地元の商店街や工場よりは高くなることもある。しかし引退をするとそのような「グローバル特典」はすべて失うことになる。ごく一部の界隈のごく一部の人には「客寄せパンダ枠」が存在するとしても、自分の実力というよりも組織の決定を広報させられているだけ状態になりがちである。

ギャップ—というより、元の世界に戻ったという感覚が近いかな

ソチ五輪スペシャル企画「普通の人」になったオリンピック選手たちに会いに行く

この記事の「元に戻った」というのが核心的な感覚なのではないか。

しかしそれでもアスリートのコメントからは「私はオリンピックでメダル取ったんだぞ!プロで活躍したんだぞ!その辺の町の工場の作業員とは違うんだ!」「引退した野球選手はサラリーマンにもなれない」という表現からも、「その辺のサラリーマンとは違う!」という感覚が透けて見える。しかし現実では、その辺の作業員やサラリーマンはそれぞれの専門キャリアを積んでいるので、いったん彼らの領域に入ると彼らの方が上になる。

フィジカルスポーツの、選手の最大の資産は言わずもがなで身体能力である。しかしこれは30歳前後で衰え始める。

一方、現在の資本主義の世の中では、資産は、生まれながらの出身を除けば、大部分を知能が占める。さらに知能は30歳前後では衰えない。むしろかなり高齢でも成長することが分かっている。

ここも見方を変えれば引退したアスリートはいわば「スポーツがやたら強かったという若干特殊な技能を持つ町工場の作業員」というキャリアを歩んでいた可能性が高いだろう。

なおアスリートにおける「ひとつのことを突き詰める能力」等付随する関する考察は、別記事にすることにする。

要は一度分不相応な業界を知ってしまったために、また元の水準に生活レベルと意識レベルを戻すのが難しい状況である。しかし元の水準に戻ることを受け入れられず、迷走を始める例が多い。

戦後の日本社会

さて、このような状況に似たものは身近にないだろうか?そうである。昨今の日本社会である。

日本は戦後、急成長を遂げ、かつて高度経済成長とバブル経済で世界一の時価総額を持つ会社がいくつもある状況になった。日本に進出するために日本語を学ぶ人が世界中に存在していた。”Japan as No.1″という語句まである。

しかしその後は、周知のように、日本経済が失われた30年と呼ばれるように、ここ30年ほかの国と比較しても成長していない。

そもそも、これをよく考えると、日本は国土が広いわけでもなく、人口密度は高めだが、人口も多いわけではない。今となってはこれといった先進技術もない。そして人口減少が始まり経済の衰退がはじまるのが現状である。

ここでもし、戦後バブル経済が無ければどうなっていただろうか?おそらく日本はアジアの中くらいのサイズの国であり、おそらく発展途上国に分類される国であったに違いない。

要は日本はバブルで「たまたま分不相応に成長してしまっただけ」という見方が出来る。

これを解決するには仮に高度経済成長とバブル経済が存在しなかった場合に予想されるような「日本はアジアの中位辺りに落ち着く」という状況を受け入れればいいだけである。

しかしながら、一度Japan as number oneを体験してしまった以上、「日本はかつて世界を牽引する国だったんだ!そこら辺の国とは違うんだ!」という感覚を捨てられず、外国人労働者やブラック企業などと若干迷走をしている状況である。国家の繁栄・衰退と1人のキャリアの繁栄・衰退はスパンが違えど非常に似通った構造をしているように見える。

「日本すごい!」系の番組は特に年配層で数字が取れるらしい。政治・経済面では全く勝てないが、スポーツなら日本も一矢報えるために、日本人がスポーツに希望をかけて日本代表が外国代表相手に勝利する姿に感動を覚えるというのは、偶然にもスポーツ選手の引退後のセカンドキャリアに通づるものがある。

アスリートと日本代表と日本人 -日本人の精神と報道の構造から-

一度上がった水準は下げるのが難しい

主体的かどうかは別としても、人間は一度いい目を見ると、衰退を受け入れられなくなる傾向になるようである。上で見たように日本が成長したのは、戦後の人口増加とバブル経済によるものであった。解決策は「日本はアジアの中位辺りに落ち着く」という状況を受け入れればいいだけだが、これが難しい。

アスリートが日の目を見たのも、競技という特殊な状況で世界レベルに偶然にもなったことによる。見方を変えれば、これもバブルである。アスリートもいわば「分不相応に目立ってしまっただけ」であって、元々の身の丈に合った地元の工場へ戻るのが「最も自然な解決法である」ように見える。

最近では、ワールドカップ・オリンピックや万博などのイベントにかこつけて成長する盛り上がるニッポンを演出しているように見える。アスリートも正味数か月、長くても1-2年で賞味期限は切れると考えているが、それを何か月も何年も引き延ばしている印象である。

アスリート自身も引退後に「私はこんなもんじゃない!私はオリンピックでメダルを取ったんだ!」と、ほかの分野でも活躍ができると暗に信じている面がある。確かにこのような能力は生かせる人は生かすことが出来る。これは他の記事に譲りたいが、ここで必要なのは、分野外にも移転できるような高めの知能である。

要は「元に戻る」だけである。この辺りは、宝くじの当選とその後にも同様のことが言える。当てた後の方が暴走して当てる前よりも不幸になりがちな点も、類似性を感じる。

アスリートと宝くじ -統計的な視点から-

日本の今後の参考になる!?

逆に言えば、もしこれらのおなじ同じ傾向を示すことがわかるのであれば、引退するアスリートの心理や行動を分析することは、衰退が避けられない日本社会の今後の関係者の心理や行動を分析することに役立つ可能性は高い。さらに日本という国家は1つであるが、引退するアスリートはそれはもう数えきれないくらいにごまんといるし常に供給されてくる。さらに国家の繁栄衰退と比べると1人のキャリアの繁栄衰退はスパンが短い。それらから傾向を探れば、今後の対策として、引退後のアスリートと日本経済の構造や関係を調べていくことは、新たな洞察をと解決策を導く可能性を秘めているといえる。

解決策はいくつか思いつくが、どちらかというと対処療法というよりも予防療法が効果的であろう。また別の機会に考察していきたい。